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放浪家なミニマリストがアルザシアンと結婚して30代の生き方を考える

後悔する暇がない位に挑戦し続けてやろう!って言う決意表明

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今日はどうしても何か書きたかった。って言うより書かなきゃいけない日なんです。そんな日もありますよね?
どうもこんにちは、みほつー (@Miho2blog )です。

 

 

 

 

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 今でこそしばらく定住するかもしれない土地が見つかったけれど、基本的に私は移動を好むし、旅をするように暮らすと言うスタイルが大好物です。

 


自分が好きなライフスタイルをやっと見つけて実現するためにただいま絶賛修業の身。
国内外いいなと思ったところに赴くフットワークの軽さはちょっとだけ自慢です。
でもそんな私が、自分の選んだこのライフスタイルが正しいのか正しくないかと軸がぶれた日があったんです。

 

 

 

 

2年前の今日、父が急死する

 

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2015年のこの時期。私は最後の悪あがきでオーストラリアにワーホリをしていました。ビザも切れる間際だったので彼(現夫)とキャンピングカーを借りて10日間の国内ロードトリップの真っ只中でした。

 


私の両親は私のオーストラリア行きを快く思ってなかったので、自分からは連絡をあまり取っていなかったけど、しばらくwifiも使えない環境になるしそれだけ伝えようと母に久しぶりにメールをしたのです。

 

その際にパパの具合があまり良くないから頭に入れておいてとのメール。詳しいことは書かれていませんでしたが、元々あまり体の強い人ではなかったし今まで何回か入退院したこともあったりしたので正直またか〜、疲れてるんだなとしか思いませんでした。

 

 

けれどその後数回メールのやり取りをして急速に病状が悪化。彼の後押しで日本への緊急帰国することになり、パニック状態の私と冷静を努めようとした彼は500km離れた最寄り空港へ大急ぎで向かいました。

 


次にいつ会えるかそんなこともわからないまま彼と離れ日本に帰国をして、真っ先に病院に駆け込み見た父の姿はたくさんのチューブに繋がれている生かされている人になっていて、私が到着して話しかけて一瞬ピクッと動いたように見えました。
でもその後から父が動くことはありませんでした。
法律ギリギリの大量のモルヒネを投与されていたから。

 

 

そしてそれから5日後、父は他界しました。

 

 

 

母は強しは本当だった

 

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あまりにも青天の霹靂すぎて現実を受け入れらませんでした。そりゃそうですよね。私も歳をとったけど、もちろん父も同じように歳を重ねてただけ。64歳だった父は入院前日まで仕事をし続けて、余暇を楽しむこともなく突然にいなくなってしまいました。

 

 

父の死後は事務的に進められる手続きを淡々とこなして繁忙極まりない日々が続きました。悲しいという感情が普段の感情に付け足されて気づいたら泣いているってことが多かったです。家族みんなのメンタルがギリギリでした。なんか壊れそうな飴細工みたいな感じ。

 


一通り終わって時間に余裕ができた時にこんなことを思いました。

 

  • 父とのコミュニケーション不足の後悔
  • オーストラリアに行かなければ良かったかもしれない
  • これからの母の生活の心配
  • 彼との今後
  • 私はどうしたらいいの?

 

 

私の頭の中は答えが見つからない負のループがぐるぐるしてました。毎日泣きっぱなしの私とは違って気丈に振る舞う母。

唯一母が泣いたのを見たのは父の車が駐車場からレッカー車によって運び出された時に、あぁ本当にパパは居なくなっちゃったんだね、って泣いてました。

 

母が泣いたその日とこんなに濃い話は初めてしたんじゃないかってくらい色々な話をしました。

 



私:昔は敷かれたレールに沿って生きるのが当たり前って自分で思っていたし、両親もそのお膳立てをしてくれて思った通りになるはずと信じて疑わなかった。
でもそこに少し疑問を持つようになって勇気を振り絞ってちょっと脱線して見たら見える景色が違って人生がおもろくなってきたよ!と。

 

 

そんな私を間近で見ていた母は

 

『人生楽しそうだし、誰にも迷惑をかけてないんならアナタのやりたいようにやったらいいよ。何が正解で不正解かなんて過去を後悔するより、自分の好きなことを優先しなさいな。』

 

 

 

母との会話で『あ〜自分ってなんてちっぽけで自己中心的だったんだろう!自分のことばかり考えて人の幸せや周りへの配慮も出来ずにいたんだ。母はこんなにも私の幸せを考えてくれていたんだ!』と思い知りました。

 

 

 

そして母からの後押しを受けた私は彼に再び会うべく日本を再出国することにしたのです。幸い親戚が母の家の徒歩圏内に住んでいるので、不安ゼロまではいかないけどだいぶ安心です。ま、私が見つけたおうちだったんですけどね。


私が幸せでいることが母の幸せって気づけたから出来た行動でした。

 

 

時間は無限ではない、いつかは終わりがやってくる

 

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父の死から学んだことは本当にたくさんあったし、悲しいけどそれによって家族同士の絆が太くなったと感じました。
人はいつ、どこでどうやって死ぬかもわからない。だから悔いのないように自分の言葉で直接気持ちを伝えること、これを毎日意識して過ごすようになりました。

 

 


私の好きな歌手の1人の竹内まりやさんの毎日がスペシャル 。

この歌詞の中に

 

  • 毎日がスペシャル
  • Everyday is a special day
  • 目覚めた朝 息をしてるだけで 幸せなこと

 

 

 

当り前な日なんか1日もない。スペシャルな毎日に好きな人たちと一緒に居れる幸せを噛み締めて。限りある時間を無駄にしないようにしないとと改めて考えさせられる日になりました。
お父ちゃんのことをたくさん考えられて感じられて私にとって素敵な7月24日になりました。

 

 

まとめ

 

自分の好きなことをスピード感を持ってとことんやれ!

周りを楽しく巻き込めるくらいエネルギーの高い人になる!